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墓標、位牌

葬儀・法事等の追善供養の意義について

「人の生まれた以上に必ず臨終あり、如何に臨終を良くすべきかに日々の行あり。」

これは当山第五十三世、故塚越秀忍僧正の言葉でありますが、私たち凡夫は「生ある者、必ず滅する」と、充分わかっていながらも、この死から目を背けようとする方が大多数かと存じます。

しかし、死を享受してこそ、安心した人生が開かれるのではないでしょうか。その意味においてこの言葉は、仏法に説く (前世、現世、来世)の生命観に立脚した死生観に基づくもので、大変重要な言葉であると存じます。

私たち総ての人は何れ、この臨終を迎える時がやって来るのでありますが、この事について当山が所属する宗派である真言宗豊山派が発行した「追善供養のこころ」では次のように問いかけております。

 

死はすべてのおわりか?

「死んでしまえば一巻の終わり」と言いますが、確かに『死』によってその人の一生は幕を閉じます。

しかし、人の総てがその『死』とともに終わり、総てが消え去ってしまうのか、或いはその人の死後も何か続いていくものがあるのかどうか、これは古今を通じての課題でありました。

ただ、この事は残念ながら、誰も自分自身で実験的に実証することのできないことであります。果たして『死』によってその人の総てが終わってしまうものでしょうか

 

また、世親菩薩作、玄奘訳の「倶舎論」を根拠にして、ある有名な宗教家(医学博士)は生命の流転の様相を四有(本有、死有、中有、生有)に分けて説いています。(もっとも、我が宗派ではここまでは説いてはいませんが・・・)

この説では、生命本体ともいえる は 、現世の本有から死有を通って次なる来世の中有に旅立ち、そして生有に輪廻転生する……このプロセスの中で死有を如何に通り過ぎるかによって中有の旅の良否がある、と言っています。

ここで冒頭にある秀忍和尚の言葉の意味を再考して頂きたいのです。近頃、追善供養(葬儀、法事等)を風俗、習慣のみの事と考えて、無意味に思ったり、時には否定さえする人が目に止まりますが、この追善供養こそ中有にある新寂精霊の果報を倍増し、成仏に導く方法です。

臨終、即ち「死有」を乱さず通過することは極めて重要な事ですが、その為には常日頃から心がけ「善業を積み悪業の消滅を計る日々の行」に専念しなければなりません。そして自身が菩提心をおこし、信仰の道に入ってこそ心身とも安心立命の境地に至ることができるのです。

安心立命…信仰によって天命を知り、心安らかにして少しも動じないこと。

 

戒名について

「戒名」とは某事典によると

 (1)仏門に入った者に与える名前

 (2)死んだ人に付ける名前、と書いてあります。

(1)の生前に仏門に帰依することを正式には『逆修』と言いますから(2)のことを『順修』と申すべきでしょう。

しかし、本来受戒により得た法名を戒名と呼ぶのですから、仏門に入った者に与える名前を『順修』と呼び、死んだ人に付ける名前を『逆修』と申すべきではないか? と思います。この様な理屈はともかく、現在人々に理解されている「戒名」とは(2)の死んだ人に付ける名前というのが現実的意味になってきているようです。

十善戒

不殺生 あらゆるものの命をいたずらに奪ってはいけない
不偸盗 他人の物、公の物を盗んではいけない
不邪淫 正しい愛情生活をしなければいけない
不妄語 嘘、いつわりを言ってはいけない
不綺語 綺麗事を言って人を迷わしてはいけない
不悪口 人の短所を言って自分の長所を言ってはいけない
不両舌 両方の人に対して違ったことを言ってはいけない
不慳貧 貪る気持ちを起こして物惜しみをしてはいけない
不瞋恚 むやみに怒ってはいけない
不邪見 よこしまな考えを起こしてはいけない


御布施について

御布施とは梵語「ダーナ」の訳で「施し」という意味です。「布施」には財施・法施・無畏施の三種があります。「財施 」は所有している貴重な財物の一部を施すことであり、「 法施」は御仏の有り難い法を施す意味です。「無畏施 」は人から不安や恐怖を取り除き、恐れのない状態にすることです。私たち僧侶が在家へ伺って法を施し、在家からは財物を施すという事は、今や日常茶飯事となっておりますが、これがこのまま布施の法施であり財施であるのです。

しかしながら、最上の布施とされているのは無畏施であるといわれていますので、心したいものです。

御布施(財施)は葬式や法事で拝んでもらった労力に対する代償として支払われるお金だろう、ぐらいに考えている人が多いようですが、これは誤りです。この御布施の中には、引導や読経の裏付けとなる、住職や僧侶の修行や人格形成、更に御先祖をお祀りする菩提寺境内の管理費、伽藍の維持費が含まれています。また、本尊、諸尊、仏具荘厳具を守る費用ともなるのです。勿論、住職、寺族の生活費や職員の人件費に使用される事は申すまでもありません。

開山以来、寺院はその土地の開発領主、城主などから禄高を頂戴し、寺の維持運営に充てていたことが多かったのですが、寛永時代になると檀家制度が出来、段々と檀家が菩提寺を護持するように変り、明治、大正、昭和とその傾向は益々強くなってきました。殊に、太平洋戦争終結後の農地開放により、大半の寺院は農地や山林の多くを失います。

そして昭和二十七年、宗教法人法が制定され、総ての寺院はこの法律の基に経営することになりました。以来、寺院は檀信徒からの御布施が収入の殆どを占めるようになったのです。言い換えれば、新憲法下では檀家は菩提寺を興隆し、護持する責任を負わされているという事になりましょうか。

仏教寺院の大方がこのような経緯で今日を迎えておりますが、近頃、新聞紙上等で葬儀の布施が高い等、寺院経営に対し厳しい批判があります。確かに、一部の寺院においては考慮されるべき点はありますが、前述した状況が分らない方々による無責任な発言も多いようです。

 

「墓標」、「位牌」について

葬儀の後、土葬の場合は直ちに、火葬の場合は初七日忌(五七日忌、七七日忌の場合もある)の後に埋葬しますが、この時に必ず必要になるのが「墓標」です。「墓標」は故人の印(象徴)であり、追善供養の墓参りには欠かせないものであります。墓標が朽ちる前に石塔を建立し「戒名」を刻まなければなりません。

もっとも、だからといって一周忌前に石塔を建立するのは早すぎます。経済力があるがまま石屋に勧められ、七七日忌、百ケ日忌に石塔開眼の申し込みをしてきた人がおりましたが、早くとも一周忌が限度であり、石塔を立て、「戒名」を刻む時機は三回忌、七回忌が理想といえましょう。追善供養は細くとも長く、又、絶えることなく続けることが大切です。

次は葬儀に授かる位牌についてです。「白木の位牌は仮位牌」と申しまして、仮の位牌はやがて「本位牌」(塗り位牌)に変らねばなりません。

けれども、実際には何年もの間、白木の位牌を仏壇にお祀りしてしまっているお家が稀にあります。この新寂精霊の「白木の位牌」は五七日忌(三十五日)供養の後、四十九日の忌明けまでに、必ず「本位牌」に造り替えましょう。

なぜこの「本位牌」を造るかと申しますと、亡くなった方の生前の業績と中陰(ちゅういん)といわれる七七、四十九日間の御供養の成果とによって、亡き精霊が仏界に収まられるわけですが、その期間は”道中の仮の姿”という事で「白木」、収まるところへ収まった満中陰(四十九日)以後は黒塗りの永久的なお位牌にするわけです。

当山の例を挙げますと、檀信徒に「白木の位牌」と「本位牌」とをお持ち頂き、「白木の位牌」は新亡精霊棚にお祀りし日々供養致し、毎年十二月二十八日の納めの不動でお焚き上げを致します。また、「本位牌」については本尊、大聖不動明王様と御結縁(位牌開眼供養)の後、お仏壇へお祀り頂いております。

どなた様もこの際、仏壇を覗いて頂き、昔、葬儀に授かった白木の仮位牌がそのままありましたなら、何時の時代のものでも結構ですから、本位牌に造り替えて菩提寺に位牌開眼供養をお願いしましょう。

また、追善供養終忌といわれる、三十三回忌の供養を済ませた仏様が入るべき『先祖代々の位牌』(繰出位牌、集合位牌)に、新しい仏様(新寂精霊)を収めてしまうという誤った例も目につきます。供養もこれからという時に、供養済みの扱いをしてしまう無礼は知らない事とはいえ、許されないことです。

白木の位牌
本位牌
繰出位牌

十三仏信仰について

「十三仏信仰」は今日、日本仏教の追善供養の根幹をなすものとなっています。そもそもインドで仏教が誕生した釈尊の時代は四十九日(七七日忌)で供養が終了していたそうですが、仏教が中国に伝承する過程で当地の儒教や道教と習合し、亡者の生前の行いを十に区分して審理するという「十王信仰」が生まれました。

やがて十王信仰は我が国に伝わり、平安末期に末法思想と冥界思想と共に広く浸透しました。鎌倉時代には十王をそれぞれ十仏と相対させるようになり、時代が下るにつれてその数も増え、室町時代に日本独自の十三仏信仰へと発展を遂げたのです。

十三仏信仰は、「曼荼羅」の仏、菩薩、明王のうちから、特に御功徳の優れた諸尊をお選びして、志す精霊を密厳浄土にお導き下さるよう、忌日ごとの守本尊とするのが習わしです。

十三仏の御真言をお唱えして、忌日の本尊を拝む事は最も功徳があるといわれております。弘法大師様は御著作「般若心経秘鍵」の中で「真言は不思議なり、観誦(唱えること)すれば無明(迷い)を除く」と仰せられております。次にその真言を紹介します。

十三仏の御真言

  初七日   不動明王
        
のうまくさまんだばざらだんかん

  二七日   釈迦如来
        
のうまくさまんだぼだのうばく

  三七日   文殊菩薩
        
おんあらはしゃのう

  四七日   普賢菩薩
        
おんさんまやさとばん

  五七日   地蔵菩薩
        
おんかかかびさんまえいそわか

  六七日   弥勒菩薩
        
おんまいたれいやそわか
  
  七七日   薬師如来
        
おんころころせんだりまとうぎそわか

  百ケ日   観世音菩薩
        
おんあろりきゃそわか

  一周忌   勢至菩薩
        
おんさんざんざんさくそわか

  三回忌   阿弥陀如来
        
おんあみりたていぜいからうん

  七回忌    如来
        
おんあきしゅびやうん

  十三回忌  大日如来
        
おんばざらだとばん

  三十三回忌 虚空蔵菩薩
        
おんばざらあらたんのうおんたらくそわか


十三仏

因みに当山では、満中陰迄の本堂での追善供養は初七日忌、五七日忌、七七日忌に中心をおき、その他の忌日(二七日忌、三七日忌、四七日忌、六七日忌)については塔婆供養のみ行います。

但し、若くして亡くなられた方、特には事故死・自殺等の場合は、総ての忌日の供養をして差し上げたいものです。

前述の十三仏の忌日以外に十七回忌、二十三回忌、二十七回忌もあり、更に五十回忌、百回忌までも行われる場合があります。この他祥月命日はもちろん、毎月の命日にも供養する気持ちが大切です。

 

仏壇について

お彼岸について

「お彼岸」とは「彼の岸」即ち「向うの岸」のことを指し、梵語ではパーラミター(波羅蜜多)といいます。波羅蜜多は「到彼岸」の意があり、「悟りの境地に至る」こと、即ち「仏の世界に至る」ことを表します。

この「彼岸」に対して「此岸 」(しがん)という言葉がありますが、お彼岸は此の岸(現世 煩悩の世界)から彼の岸(来世 悟りの世界)へ渡る仏道修行週間であることを意味します。彼岸は春と秋の年二回の「中日」(春分の日、秋分の日)を挟んで前後三日、併せて七日間の一週間を言います。また、中日が示しますように暑からず、寒からずの好季節であり、しかも昼夜等分のこの時を選んだことは仏教の中道精神(偏らない心)を尊ぶ事によるものでありましょう。

お釈迦様は私たちに「此岸」から煩悩の海を渡って迷いのない「彼岸」に到達するための六つの実践方法を教えて下さいました。それは 六波羅蜜の教えです。

六波羅蜜

(一)施そう、物と心!
(二)守ろう、規則や約束!
(三)こらえよう、どんなことにも!
(四)努力しよう、与えられた仕事に!
(五)冥想しよう、心静かに!
(六)目覚めよう、仏心に!

この中の一つでも二つでも日常の生活の中に生かし、彼岸の世界へ近づこうではありませんか。

さて、お彼岸には古来より、盛んに塔婆をあげて先祖や精霊の追善供養を致しますが、これは一つには、迷いの「此岸」から成仏出来ずにいる精霊を、悟りの「彼岸」へ救い導くために行なわれるといわれています。更には、既に成仏して「彼岸」にある精霊の果報を倍増するために行なわれるのです。そして、追善供養を行なった施主の善行の積善は廻向され、やがて功徳となって自分自身に還ってくるのです。

御先祖や精霊の為だけではなく、御自身の修練の為にも追善供養は実に大切です。供養ができる人は、自分の事以外に、他人の面倒も親身になってみてあげられる人であり、供養を行う施主はそのまま、菩薩道を行く修行者となって、その人格は大いに磨かれるのです。そうした日々の精進の暁には、生きながらの仏にすら成得るといわれています。これこそが、真言宗が目指す弘法大師の教えの一つ「 即身成仏」です。

そして、この様な菩薩が地上に満溢れた世界が「密厳国土 」と呼ばれる、お大師様のもう一つの教えです。

※廻向…自ら修めた功徳を自らの悟りのために、または他者の利益のためにめぐらすこと。


施餓鬼会について


餓鬼道の世界

「餓鬼」とは、六道の一つ、餓鬼道に落ちて、いつも飢えと渇きに苦しんでいる亡者のことです。餓鬼が口にしようとするものは、全て炎となってしまうので、何一つ食することができず、飢えの苦しみは限りがありません。こうした餓鬼は、自分の力でその苦しみから抜け出す術はなく、施餓鬼会が、唯一の救いになるとされています。

施餓鬼の意味は単にこれだけの事であっても、狙いとするところは我々人間が万物総ての生き物に情をかけ施して上げることです。その精神を育てることが奥に秘められている事を忘れてはならないと存じます。これが21世紀の地球を救うことになるのではないでしょうか。

 

お盆(盂蘭盆会 )について

盂蘭盆とは梵語のウランバナという言葉に由来し、この読みに漢字を当てたといわれています。ウランバナには「倒懸 」という意味があって、これは逆さに吊るされた地獄の苦しみをさしています。この地獄の苦しみにあえいでいる先祖に対して、子孫がこの世から供養することの功徳によって、その苦しみを救ってあげようと願う行事が 盂蘭盆会なのです。

塔婆について

卒塔婆は梵語「ストゥーパ」の音訳で『仏塔』という意味です。我が国においては昔から報恩謝徳の為に建られたもので、後には供養の為に建られるようになりました。仏塔には五輪塔、五重塔、三重塔、多宝塔など種類が沢山ありますが、精霊の供養には五輪塔が多いようです。年回、盆、施餓鬼、彼岸の供養に用いられているのは、この五輪塔から成る板塔婆で、一般にお塔婆といえばこの板塔婆のことを言います。

この板塔婆の表には胎蔵界の五仏、大日如来、宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来を表す梵字が表されています。胎蔵界とは、真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えており、母胎の中に子供を蔵するように、大日如来の中に蔵している慈悲を説く法門です。

板塔婆の裏には、金剛界の大日如来を表す梵字が表されています。金剛界とは、真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えており、悟りの智慧を説く法門です。

これら金胎両界の仏を表す梵字を書くことにより、塔婆そのものが円満なる両界大日如来のお姿となるのです。更に表の五仏の下に、初七日忌ならお不動様、五七日忌ならお地蔵様というように、各回忌の本尊様の梵字と御真言を加えることで、その塔婆はお不動様やお地蔵様となって、亡き精霊をお導き下さるのです。

真言宗では塔婆を建てない供養はありません。塔婆は亡き精霊への便りであり、また現世に在る私たちを、この便りによってご先祖が守護し幸福にして下さるのです。塔婆建立により、「我、仏天に守護されり!」と安らかな境地に立つことができます。ご法事の際には、先祖代々菩提のため、報恩謝徳のため、更には家内安全祈念のために塔婆を建立することを忘れないようにしましょう。



仏教あれこれ

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