当山の寺号は羽黒山今泉院大聖寺(はぐろさん こんせんいん だいしょうじ)といい、その寺歴は平安時代まで遡る。一条天皇の御代、長徳元年(995)に醍醐寺成尊僧都により「今泉寺」として現在地より東約500m先の永国の中央、亀井墓地近辺に開山されたのが縁起だと伝えられている。 その後、応安七年(1374)、十六世祐尊代に、小田城に拠ったこの地の豪族小田氏の当主、小田孝朝が「小田城四方護寺」(常陸四箇寺・小田四箇寺とも云う)を設けたのを機に大聖寺と改め、寺地も田中荘平塚(現在のつくば市西平塚)に移したとされる。 「小田城四方護寺」は小田城を主軸として扇の如く神郡の普門寺、平塚の大聖寺、岩田の法泉寺、加茂の南円寺と配しており文字通り、小田城の出城の役割を果たしていた。時の勢力は次の通りである。 神郡 普門寺 寺領一萬二百貫 僧兵五百也 当時の平塚大聖寺は小田家と共にありしも、天正十八年(1590)に小田家が滅亡する遙か以前の大永六年(1526)には常陸国長国今泉寺大聖院として現在の所在地、永国に戻っていたことが京都・東寺所蔵の「亮恵僧正門弟名帳」に記されている。現在の羽黒山今泉院大聖寺と改名されたのは、この再移転した大永六年から天正四年(1576)までの間のことである。 当山はこれまでに幾度かの火災があり、江戸期の貞享二年(1685)には堂宇を消失したが、同年、土浦城主松平信興が山門を寄進するなど貞享四年には再興された。 やがて土浦藩は土屋家に城主が替わり、土屋政直以降歴代の城主から寺領を安堵された。延享二年(1745)には門末合わせて百六十ヶ寺を擁する檀林所格の本寺として大名と同格の格式を持つ寺院として栄え、また同年十月には伝法灌頂道場も開設している。 しかしながら文久三年(1863)、修復なったばかりの本堂その他の伽藍をまたしても消失して明治維新を迎えた。 歴代の住職や檀越が悲願とした本堂がようやく再建されたのは、現住五十八世隆成代の昭和六十年(1985)であった。 昭和六十二年、北関東三十六不動尊霊場第三十一番札所となり、客殿、護摩堂、大師堂等諸伽藍が順次整備された。 平成十九年二月には秋篠宮文仁親王殿下御台臨の栄誉を賜った。当時、住職が稲敷市稲波干拓地に毎年飛来する雁(オオヒシクイ)の保護活動に携わり、山階鳥類研究所の理事も務めていたことから、同研究所の総裁であられる秋篠宮文仁親王殿下を稲波干拓地へお招きする機会を得たことに因る。 |